私はどうして頑張れないのか。

ふとした時に、自分は頑張れない人間になっているのではないかと不安になる。そもそも頑張るとは何か、という話になってしまうのだが、私にとってそれは勉強すること、そして考えることだ。人間一生勉強とはよく言ったもので、生活をしていると様々な問題に直面する。そのたびに、学び、考え、成長していく。一生それの繰り返しである。つまり、頑張れないということは成長できない(正確に言えば、成長する能力がない)ということであり、それはとても深刻なことである。そのため、私は立ち止まってこの問題に対処しなければならない。

冒頭に、頑張れない人間になっているのではないかと疑問形で書いたが、話を進めやすくするために、確かに頑張れない人間になっていると仮定する。では、なぜ頑張れない人間になっているのかを探るのだが、頑張るということをステップに分けて考えてみよう。繰り返しになるが、頑張るとは問題に直面したときに、学び、考えることである。これをステップに分けるとどうなるだろう。単純に考えれば、①問題に直面する、②勉強する・考える、③問題を解決する、となる。とりあえず分けることはできたので、それぞれについて考えてみよう。

まず、①問題に直面するということについて。世の中に生活をしていない人はいない。そして、生活をしていれば必ず何かしらの問題に直面する。故に、すべての人がなんらかの問題を抱えているはずである。学生ならば、受験を突破すること、部活動で目標とする成績を残すこと。社会人ならば、与えられたノルマを達成すること、仕事と家庭を両立させること。それだけではなく、恋愛や同僚・部下・上司との関係性など、人間関係も多くの人が抱える問題だろう。では、もしこのステップが頑張れない原因となっているならば、それはどういうことだろう。言葉で表せば、問題に直面していないということである。これは一見、とてもいいことじゃないか、と思われる。自分を悩ませる問題は無いに越したことは無い。しかし、問題に直面していないということは、この段落の頭に述べた、すべての人がなんらかの問題を抱えているはず、ということと矛盾する。これはどういうことだろう。私は、問題に直面していないという言い方が不正確なのではないか、と考える。正確には、問題に直面しているにも関わらず、その問題から目をそらし、ないものとしている、ということだ。これは自分の経験ともよく合致する。面倒なことはなるべく避けたいし、実際に避けてきた問題もある。しかし、自分に与えられた問題を解決しようとしなければ、成長することもないということは誰でも納得できることだろう。結論だが、①問題に直面することが頑張れない原因になっている場合には、自分の問題から目を背けずに、立ち向かう勇気も持てばいい。本来であれば、ではどうすれば勇気を持てるのか、ということを考えなければいけないのだが、ひとまず保留して次のステップに進みたい。

次に、②勉強する・考える、ということである。問題と向き合ったならば、それを解決しようとするはずだ。しかし、ただ漫然と過ごしていても解決法が見いだされることはないだろう。解決する方法を自分で考えなければならない。このステップが頑張れない原因となっている場合だが、どうやって考えればいいのかが分からない、ということになるだろう。そもそも、何かしらの問題に直面した場合に、その問題を解決できると考えるのは、無意識に近代科学の考え方を採用していると思う。近代科学を簡潔に言えば、観察と実験によって、世界のあらゆる現象に法則性を見出そうとすることと言える。(これは素人考えのため批判もあるだろうが、とりあえず納得してほしい。)法則性を見出すことができれば、自分の理想通りに制御が可能となる。制御が可能となれば、それを社会が豊かになるように利用することができる。そうして、近代科学は我々にとって当たり前の考え方として定着している。そして、その考え方を私たちも日常の問題に適用しているのである。例えば、私は営業職として働いているが、自分のノルマを達成する方法を考えるとき、まずは自分のノルマに影響を与える要因はどんなものがあるのかを考える。顧客へのアクセス数や受注率、粗利率など複数挙げられる。次に、それぞれの要因について、その要因に影響を与える要因を考える。顧客へのアクセス数ならば、自分のスケジューリングや顧客リストの有無など。受注率ならば、見積金額や顧客の財務状況なども考えられるだろう。そうやって目標とするものに影響を与える要因を見出して、最終的に自分の行動によって変化させることができる要因を見つけるのである。考え方の話が長くなってしまったが、②勉強する・考えるということが頑張れない原因になっているということは、問題への考え方が身についていないと言える。これは①のような精神論ではなく、単純にテクニックの問題なのでそれほど深刻ではない。考え方を学べばいいだけのことである。補足として、この段落では考えるということだけに重点を置いて、勉強するということについてはほとんど触れていないが、勉強も考えることと同じくテクニックである。人それぞれ、自分に合った勉強方法を身につければいいだけである。

最後に、③問題を解決する、である。多くの場合、このステップが頑張れない原因となることは無いと思われる。ステップ②までを終えて解決方法を見出したなら、それを実践しない手はないだろう。ただし、その解決方法がうまくいかない可能性も多分にある。むしろ、うまくいくほうが稀だろう。その場合には再度ステップ②に戻って考え直せばいいのだが、それでもうまくいかない場合もある。なぜならば、我々が直面する問題には影響を与える要因が多すぎるし、その構造も複雑だからだ。加えて、もしその問題の構造を完璧に分析できたとしても、我々が変化させられる要因は限られる。近代科学は、すべての現象に法則性を見出すことができるという信念のもとに成立しているが、その信念は個人的な問題においては打ち砕かれてしまうようだ。しかし、解決できる問題もあるため、それを悲観する必要はない。ただ、どうしようもないことについては諦める心構えも持っていたほうがいいということである。

以上、長文になってしまったが、私が頑張れない原因として以下のことが見いだされた。Ⅰ、問題から目をそらしている、Ⅱ、勉強法・考え方が身についていない。それならば、この2つを解決するように取り組めばよい。それについては、一眠りしてから考えることにしよう。

6/1 月曜日

何となく不安だ。

何が不安なのかがはっきりしない。でも、何となく不安なのだ。きっと何かしら問題があるのだろう。しかし、問題を整理して不安を解消する力が私にはない。正確に言えば、勇気がない。実に悲しいことだ。

でも大丈夫。大抵の心配事は実際には起こらない。今までだったそうだったじゃないか。

課題を整理して、最悪の事態を避けられるようにケアし、望んだ状況に近づくための手を打つ。仕事とはそういうことだ。全て思い通りにはならない。でも、時々はうまくいく。

5/31 自分を表現したい

自分のことを表現することが苦手だ。苦手というより、どういう訳かできない。一人の人間として、自己表現がなければ私は存在していないのと同じだ。私は自分で自分が確かに世界の一員だと実感するために自己表現したい。それが伝わろうが伝わらまいが、表現をしたい。でも、できない。なぜだろう。

自己表現とは、自分の思ったこと、感じたこと、考えていることを何かしらの手段によって他者へ伝えようとすることだ。それは、自分の内面を晒すことであり、リスクを伴う。それゆえに、自己表現をためらってしまうことは容易に想像できる。

しかし、それでも自然と自己表現ができる人も確かにいる。そういう人とそうではない人を分けるものは何か。それは、自分を必ず受け入れてくれると思える人がいるか否かではないか。人が生育して、最初に自己表現をしようとする環境は、ほとんどの場合に家族であろう。その家族において、自分が表現したことが受け入れられれば自然と自己表現は多くなる。一方で、その表現が否定される、または関心を持たれないことが続ければ、次第に表現をしなくなるだろう。つまり、生育初期の段階において、自分を受け入れてれる家族を持っている場合、言い換えれば無条件の愛を受けて育った場合には、自然と自己表現ができる人間になれるのでないだろうか。

ただ、そういうことによって、自分が自己表現ができないことを家庭環境のせいにしたいわけではないのよ。自分がそれができないということが分かったならば、そういうものとして受けれればいいのだから。もっと大切なことは、私がこれから出会う人たちに対して、、無条件とまでは言わずとも、表現を受け入れる愛を持つべきだということだ。だって、自分のことを自然に表現できないよりは、表現をできたほうが、その人は素敵だと思うから。

レーザードップラー振動計とコウモリの話

 突然ではありますが、振動を計測したい、と思ったことはありますでしょうか。

 

 普段の生活では振動を測りたいなどと考えることはほとんどないと思います。しかし、製造業、特に研究開発に関わっている方々の中には、業務上振動を計測しなければならない、ということがあると思います。

 

 では、振動計測はどのように行われるのでしょうか。

 

 振動を計測する方法として、簡単に言うと、3つの方法が挙げられます。

 

 それは、

 

 ①変位を計測する

 ②速度を計測する

 ③加速度を計測する

 

という方法です(方法と言ってしまうと語弊があるかもしれない!と思いましたが、他に適切な言葉が思い浮かばなかったのでご容赦ください)。

 

 振動を計測する、って言ってんのに、なんで変位やら速度やらを計測するんだ!と思われるかもしれません。では、そもそも振動とは何でしょうか。

 

 振動とは、簡単に言うと、上下左右に繰り返し移動する現象、とでも言えるでしょうか。つまり、重要なことは、どれくらいの量の繰り返し移動をしているのかが分かることです。そのため、それが分かりさえすれば、計測する指標は何でも構わない訳です。そして、現在、一般的に振動を計測する指標として用いられているのが、上記の3つという訳です。

 

 では、その3つについて、それぞれ説明をしたいのですが、速度と加速度については話がやや面倒になるため、またの機会に致します。今回は、①変位の計測についてお話したいと思います。

 

 変位を計測するというのは、どれくらい動いているのかを計測する、ということです。例えば、バネが上下に振動している様子を想像してみて下さい。そのバネがどのような振動をしているのか、と聞かれた場合、どのように答えればいいでしょうか。

 

 振動を表現する要素として、振動のスピード(どれくらいの速さで上下に移動しているのか)と、振動の大きさ(どれくらいの距離だけ移動しているのか)が、簡単に思い浮かぶのではないでしょうか。それぞれ、いわゆる周波数と振幅に対応するわけですが、振動の大きさを計測する、ということが、つまり変位を計測する、ということに対応している訳です。

 

 では、実際の現場ではどのように変位を計測しているのでしょうか。

 

 よく使われる方法は、レーザーを使い、ドップラー効果を利用して変位量を計測する、というものです。「レーザードップラー振動計(変位計)」と呼ばれる製品がこれにあたります。メーカーとしては、小野測器やポリテック・ジャパンなどが有名かな、と思います。

 

 レーザードップラー振動計の仕組みはごく単純です。振動を計測したい対象物にレーザーを照射し、その反射光を計測します。そして、ドップラー効果を利用して、対象物の速度を計算します。最後に、速度を積分することで、変位量を算出する、という仕組みになっている訳です。

 

 ここで大切なことは、対象物が鏡のように光を全反射してしまう場合、この方式での計測ができない、ということです。それは、計測の原理上、照射したレーザーを乱反射してくれないと、受光部でうまく反射光をとらえられないためです。

 

 実は、これと似たようなお話を最近耳にしました。それが、タイトルにあるコウモリです。コウモリと言えば、暗い洞窟に生息しているというイメージがあると思いますが、最近では都市部に迷い込んでくるコウモリもいるそうです。

 

 そして、都市部に迷い込んだコウモリに、不思議な現象が多発しているそうです。それは、コウモリが高層ビルに激突する、という現象です。

 

 なぜ、コウモリはビルに激突してしまうのでしょうか。それは、コウモリの障害物検知の方法に原因があります。コウモリは、超音波を発信し、その反射を感知することで、周りの世界を見ています。では、ビルのような超音波を完全に反射してしまうものがあった場合、どうなるでしょうか。コウモリは超音波の反射を感知できず、反射がないということは、そこに障害物は何もない、と判断するでしょう。それによって、コウモリはビルに激突してしまうのです。

 

 振動計測の話から、全く別のコウモリの話になってしまいましたが、まとめると、振動の計測にはレーザーを使った方法が使われているよ!ということです。

 

 最近では、自動運転車にもレーザー距離計のようなものが採用されているようです。レーザー恐るべし。class4のレーザーで悪戯しないようにね。危険ですから。

2017年サイバーマンデーでパソコンを買った話と「葛藤タイム」の話

2017年、年の瀬。

 

アマゾンがサイバーマンデーという集中セールを開催しています。

 

どうでもいいことですが、イベント事の名前に曜日を入れるのはどうしてなのでしょうか。日本では、ほとんど馴染みのない習慣だと思うのですが、アメリカの人たちには違和感のないことなのでしょう。

 

そんなことはさておき、サイバーマンデー初日(金曜日)にパソコンを新調しました。

(ちなみに、同日は賞与の支給日でもありました。3分の2が無くなった!)

 

どうしてパソコンを買ったのかと言いますと、

 

①これまで使っていたパソコンの動作が悪くなってきたと感じたから

サイバーマンデーだったから

 

という、ごく単純なことです。正直に告白すれば、自分の仕事環境を変えたかったから、という動機もありますが、それに向き合えるほど私の元気はございません。

 

アマゾンでパソコンを買ってみて思ったのですが、インターネットで高額な買い物をする際に、最後の注文を確定するボタンを押すか押すまいかで葛藤したことのある人はどれくらいいるのでしょうか。ちなみに、私は1時間ほど最後のボタンにカーソルを置いたまま、クリックできずにいました。

 

ミサイル発射のボタンならまだしも、10万円の買い物をするか否かで1時間右往左往する私。では、最終的にクリックすることを決断させた要因は何だったのでしょうか。

 

簡単に言えば、「買わない後悔より、買う後悔」ということなのかな、と思います。

 

ここでパソコンを買った場合にどのような状態になるのか。はたまた、買わなかった場合にはどのような状態になるのか。私の場合、それぞれを想像して比較する、という作業を1時間繰り返した結果の購入でした。

 

ネットショッピングの強みは、簡単にこの葛藤状態に持ち込めることにあるのではないかと感じました。つまり、最終的に購入を確定させるボタンを押すまでは、どんな商品をカートに入れようが、届け先住所を指定しようが、支払い方法を指定しようが、ユーザーにコストはかかりません。コストのかからないそれらの作業を進めることで、カートに入っているものを購入することが、ユーザーにとってより現実的なものになっていきます。

 

すると、さきほどの「葛藤タイム」が始まります。葛藤タイムに持ち込んでしまいさえすれば、後は買うか買わないかの2択です。そこに、「そもそも買う買わないを検討しない」という選択肢はありません。

 

たとえ今日は買わなかったとしても、次の葛藤では買うかもしれません。重要なのは、葛藤タイムに数多く持ち込むことです。

 

では、リアルな店舗での販売でも、このような作戦は使えないのでしょうか。

 

先日、近所にある安さが売りのスーパーに行き、レジに並んでいました。すると、レジ前に値札などは何も貼っていないが、乱雑に色々な商品が入れられているカゴがありました。

 

このカゴは何のためにおいてあるのか、最初は分かりませんでした。しかし、私の前に並んでいた方が、自分のカゴの中から商品を手に取ってそのカゴの中に入れてるのを見て気付きました。そのカゴは、レジ前で並んでいる時に、やっぱり要らないな、というものを入れていいカゴだったのです。

 

このようなカゴがあれば、買うかどうかで迷ったときに、とりあえずカゴに入れておき、最終的にレジ前で判断を下すことができます。つまり、葛藤タイムに持ち込むことができるのです。

 

人間の購買行動を分析し、どうすれば購入に持ち込めるのかを模索する。

 

自分を客観視できる人には最適な仕事だなと思いました。